きなこは、いまや“和菓子の粉”という枠を超え、日本の食文化を語るうえで欠かせない存在となっています。しかし、その香ばしい粉末が、いつ、どのように生まれ、どんな歩みをたどってきたのかを知る人は意外と少ないでしょう。この記事では、縄文時代の大豆栽培にはじまり、奈良・平安時代の薬食文化、江戸時代の甘味としての広がりなど、きなこが日本の食文化にどう根づいてきたかを、時代ごとにわかりやすく紹介します。きなこの背景を知れば、いつもの味にも少し違った魅力を感じられるはずです。時代を追ってたどる、きなこの歴史きなこがいつから存在したのか、正確な起源は明らかではありません。ただし、いくつかの説や記録から、おおよその時期を推測することはできます。 最も古い段階では、奈良〜平安時代に大豆を炒って粉にする加工技術が存在していたと考えられており、これがきなこの原型とされています。縄文時代:大豆との出会いきなこの原料である大豆は、すでに縄文時代中期には日本列島で栽培されていたとされています。煮豆や炒り豆など、当時の人々は大豆の保存性と栄養価の高さに着目していた可能性が高いでしょう。奈良〜平安時代:粉状加工と薬食思想の始まり奈良時代初期には、大豆を粉状にして利用していたと考えられています。平安時代の漢和辞典『和名類聚抄』(延長8年〈934年〉)には、大豆を挽いて粉にした「未女豆岐(まめつき)」という記述があり、これがきな粉に相当する最古の文献例とされています。室町時代:上流階級に受け入れられたきなこ室町時代後期になると、きなこに関する明確な記録が登場します。1587年の『宗旦茶会献立日記』には、きなこを使った菓子の記録が残っており、すでに茶席に供される食材として活用されていたことがうかがえます。明治時代:呼び名の普及と日常食への定着明治時代に入ると、それまで「豆の粉」や「黄粉」と呼ばれていたものが、文献上で「きなこ」と記される例が増え、一般的な名称として定着していきました。また、当時の家庭向け雑誌や育児書には、きなこを利用した病後の回復食や乳児の栄養補助食に関する記述も多く見られます。きなこはたんぱく源やカロリー補給源として、日常の食生活に深く根づいていったのです。きなこの歴史を知れば、もっとおいしくなるきなこは、ただの“和菓子の粉”ではありません。千年以上にわたって人々の暮らしと健康を支えてきた、頼もしい存在です。その背景を知れば、いつものきなこも、きっと特別な味に感じられるはず。次にきなこを手に取るときは、ぜひその歴史にも思いを馳せてみてください。地域で異なるきなことの食べ方はこちら参考文献きなこの歴史まとめ|豆専業専門サイトmamen.jp(参照日:2025年4月28日)出典:国立国会図書館レファレンス事例ID:1000190493出典:『料理の友』女子学習院出版部/国立国会図書館デジタルコレクション